夕暮れ

私たちが大切にしているもの。確かにあるのに指差すことができない。それは、目に見えるものばかりではありません。それらを、ひとつずつ読み解き、丁寧に表わしていく言葉の集積です。
「夕暮れ」
その日、いつもの帰り道を歩きながら、オフィスに忘れてきた書類のことを思い出していました。読まなければならない本の間に、2つに畳んで挟んでおいたその書類は、1枚目にお客さまからリクエストされたこと、2枚目にそのリクエストにどんな風に応えるか書き綴ったメモが書かれていました。今すぐに思い出そうと思えば、思い出せる内容でもあり、かと言ってすべてを正確に思い出そうとしても、なかなか難しい。あのメモがないと明朝一番の打ち合わせで冷や汗をかきそうだな、そう思った私は踵を返して、駅から歩いてきた道を引き返そうとした、その時でした。道の真ん中に立って、空を眺めている男性がひとり。さっきまで私の後ろを歩いてくる足音を聞いていたから、数秒前に立ち止まったのでしょう。左手には黒い鞄を持ち、右手には携帯を持ったまま、その人は西の空を見上げていました。彼の眼鏡に映っていたのは、あざやかなオレンジ色。昼間の太陽が傾いて、最後の力を振り絞りながら西の空を精一杯染め上げた、夏の終わりの夕暮れの濃さ。脇を通り過ぎるわずか1秒〜2秒のあいだ、男性は身動ぎもせず空を見つめているので、私も思わずふたたび家の方向に振り返ると、さっきは気づかなかった夕暮れの空がいきなりワイド画面で迫ってきました。辺りはすでに暗くなりつつあり、西の空だけが燃えるような輝きを見せていて、1秒ごとに静かに、そして誰にとっても同じ速度で、ゆっくりと変化していきます。ある人は自転車に乗りながら、ある人は配達中の荷物を抱えながら、ある人は犬の散歩をしながら、太陽が最後の最後に投げてくるわずかな温かさを頬に受け取っているのでしょうか。すっかり陽が沈んでしまうと、みなそれぞれの家へと帰っていきました。


イラスト:濱愛子
テキスト:スティルウォーター

[ILLUSTRATOR PROFILE]
濱愛子 (イラストレーター/グラフィックデザイナー)

紙版画を用いて、情感と力強さのある作品づくりを目指し、本、雑誌、広告に取り組んでいる。最近の仕事では、詩画集「今夜 凶暴だから わたし」(詩/高橋久美子、ちいさいミシマ社刊)、また、日本美術や、茶道具の世界で使われてきた形について紐解く「かたちのなまえ」(野瀬奈津子著、 玄光社刊)。それぞれ一冊を通して絵を担当している。HBギャラリーファイルコンペ大賞/永井裕明賞、東京イラストレーターズ ソサエティTIS公募入選(灘本唯人氏 「わたしの一枚」)、ADC入選、他。TIS会員。
https://aikohama.com/

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